思考実験|波打ち際に描かれたピカソの絵

読書するナマケモノ

思考実験の問題です。

もし、砂浜にピカソの絵が描かれていたらどうしますか? しかも、その絵が押し寄せる波にいまにも流されようとしていたら?

今回、紹介するのはそんな絵をまえにして葛藤する男のお話です。物語のテーマや挿話などにつかえるネタです。

波打ち際のピカソ
この思考実験の元ネタは小説家レイ・ブラッドベリの『穏やかな一日』という作品です。

どんな話なのか簡単に紹介します。

あるピカソ好きのロイという男が海辺のリゾート地をおとずれ、そこで砂浜に絵を描くひとりの老人を目撃します。

彼の描く絵があまりにもピカソの作品に似ていたのでロイは気づきます。この老人はピカソ本人で、砂浜に描かれた絵はピカソの作品そのものだと。

けれども、その波打ち際に描かれた芸術は潮が満ちれば消えてしまいます。

何か方法はないのかと考えるロイは写真にのこすことを思いつきます。

しかし、それはピカソの作品を写した写真にすぎず、ピカソの絵そのものではありません。

それにカメラを取りに行っているあいだに絵が消えてしまうかもしれません。

だとすれば、波にさらわれるまでの短い時間だけでも芸術を味わうべきなのでしょうか?

ロイはただ立ちつくしたまま、波打ち際に描かれたピカソの絵を見つめるのでした。

という話です。

紙やキャンバスではなく砂浜に描かれたことによって、ピカソの絵は儚い芸術になってしまいました。ですが、紙やキャンバスに描かれた絵も長い時間が経てば砂浜に描かれた絵と同様にやがてその原型を失っていきます。

かといって、それを阻止するために朽ちていく作品を修復してしまうと「果たして、それはもとの作品と同じ作品だといえるのか?」というテセウスの船のパラドックスのような疑問も生まれてきます。

多くの芸術作品は大事に保管したり、傷んだところを修復したりして後世にのこすことが望ましいとされていますが、時間とともに劣化(変化)していくことも芸術のひとつのあり方なのではないのでしょうか。

実際に、絵の具や素材の劣化を考慮して作られた作品も存在しています。もしかすると、失われようとする作品をまえにしてどうすればいいのかわからず逡巡するロイのような人物も含めてひとつの芸術なのかもしれません。

さいごに、もういちど考えてみてください。

もし、波が押し寄せる砂浜にピカソの絵が描かれていたらどうしますか?